ぱるんさんの8/24の日記に便乗。
不幸や絶望を扱った作品はそれなりに好きですが、
それ“しか”ない作品というのはどうにも好きになれません。
べつに悲惨な結末が嫌だというわけではなく、
問題が投げっぱなしのまま終わるのが嫌なのです。
不幸をばらまいて散らかすだけ散らかして片付けないみたいな。
読者に何かを投げかけたのなら、責任を持って回収する。
それが作者としての誠意というものです。
不幸話が量産される背景には、やはり
世の中の「世界はどうしようもなく残酷で、絶望を描く事こそが文学。
っていうか楽観的な奴はただの馬鹿」という風潮があると思います。
簡単に解決できない深遠なテーゼを投げかけたのだから
オチなんていらないでしょ?ここから何も感じ取れないのは
あなたが馬鹿だからですよ、とでもいうように
開き直ってしまいがちのが、どうにもアレなのです。
面白くする努力、思いを伝える努力を自ら放棄してしまっている。
すごくもったいない。
悲惨な出来事を扱えば高尚になるのではありません。
解決できないから放棄していいのではありません。
その「解決できない問題」を解決しようと
果敢に立ち向かうからこそ高尚なのです。
たとえ何一つ解決できなくとも、立ち向かう前と後では
同じように見えて何かが違う。その精神が尊いのです。
世の中は不条理だ、人間はみな不幸だ、と言うだけなら簡単です。
そんなもん、飲んだくれたオッサンでも愚痴れます。
この世が絶望に溢れていることぐらい、言われなくても誰だって知ってます。
ニーチェは狂気やら絶望やら神は死んだやら、厨二病患者に大人気ですが、
ちゃんと読めば、むしろ人間に対する愛がこれ以上ないほど
溢れていることがわかるはずです。
その上で絶望を受け止める。だからこそ、人の心を打つのです。
表面的な部分だけ見て誤解してはなりません。
誤解を受けている作品で有名なのは、「ひぐらしのなく頃に」でしょうか。
なにかと残虐性がクローズアップされる作品ですが、その本質は
逃れられない惨劇と恐怖と憎しみと見えない悪意に
何度も立ち向かい、力及ばす何度も絶望して、
それでも信じ合って力を合わせて戦う話です。
救いのない鬱話というのは、ひぐらしの出題編だけで
終わっちゃうような感じでしょうか。
犯人なんてわかるわけもないし、わかったところで何の救いにもならない。
絶望の淵にあってなお希望を失わない物語と、絶望に流されるだけの物語。
どっちが好きかと問われれば、自分は言うまでもなく
ちゃんと希望のある話です。ご都合主義は論外ですけど。
だからといって、希望の無い話がよくないとは思いません。
ただ、それを高尚だの人間の本質だのと言い切ってしまうのが問題なだけで。
絶望それ自体は何も生まないかもしれませんが、
絶望しかない物語だからこそ救われる人もいます。
心を閉ざした人間には、他人が描いた希望なんて
なんの慰めにもなりません。
作品の中の幸福なんて所詮は他人事。
むしろ自分の惨めさがいっそう強調されるだけです。
たとえば、異性関係で暗いモヤモヤを抱える人間なら、
主人公とヒロインがイチャイチャする話を見せ付けられるより
二人が不信感を募らせて互いに殺しあう話のほうが楽しめるでしょう。
そういう人たちには「愛の力は偉大だ」と言うよりも
「愛なんてただの性欲なんだよ!人間なんてみんな汚い!」のほうが
真実味を帯びて心に響くでしょう。
「愛する者を守るため戦う」は「暴力衝動を愛という言葉で正当化してるだけ」
でしょうか。
どちらが正しいとか歪んでるなんてものはありません。
絶望が高尚という思想が偏ったものであるように、
愛が高尚なんてのも、また偏った思想です。
ただし、気をつけなければいけないのは
価値観の押し付けになってはいけないということです。
これは問題提起だ!現実から目を背けてのうのうと生きている愚民どもに
世の真実をつきつけて目を覚まさせてやるのだー! なんてのは
ただの傲慢です。お笑い種にしかなりません。
人はとかく自分と違う価値観を持つものを見下しがちですから、
きちんと自分を律してやらないと。
グロ表現や読者の心的外傷に触れる恐れがある題材など、
普通の人が見て嫌悪感を催すことがわかりきってる作品は
あらかじめ注意書きをいれておくべきだと思います。
注意書きを入れたらネタバレになるから嫌、なんてことが
あるかもしれません。
そんな場合は、「読者を驚かせる」と「読者を不快にさせる」を
履き違えてはいないか、いちど確認してみることをおすすめします。
可愛らしいものに見せかけていきなりグロ、というのは
暴力にも等しい行為です。
不快感や残酷さというのは、強いインパクトを持ちます。
けれど、所詮はそれだけです。
その使い勝手のよさに溺れてしまわずに、
きちんと料理できるようになれるといいですね。